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化粧した「ホームレス」(朝日歌壇)
歴史的仮名遣いを用いて「ホームレス」の境涯を詠嘆する「公田耕一」の短歌が、6月8日の朝日歌壇(高野公彦選)にまた載っている。
辞書持たぬ歌作りゆゑあやふやな語句は有隣堂で調べる 公田耕一
「有隣堂」とは神奈川の大手書店チェーンの名前だ。しかし、立ち読みで語句を調べるために本屋に行くのか? 普通に考えて、図書館のほうがよくはないか? 私なら、調べ物は図書館でする。また、「本屋」とか「書店」と言えば済みそうなものなのに、特定の企業名を露出させたのは何故か。具体名のほうが、たとえ辞書を欲しくても500円の古本さえ買えないほど貧しい生活の「リアリティー」が増すとでもいうのであろうか。(ちなみに以前私の「モスバーガー食うのに苦戦してたのに…」と具体的商品名をよみこんだ短歌が毎日歌壇に掲載されたが、あのなんとも食いづらい代物を「ハンバーガー」と一般化することは不可能だ。)
そう、「リアリティー」こそ大切だ。日々その境遇に「現実に」生きてこその境涯詠だ。例えば、新幹線とジェット旅客機の散文的時代に「望郷」の歌を詠む資格を持つのは、異郷で終身刑に服する者だ。「郷隼人」のように。彼ならば、皆のように都会から二時間半で郷土に着くわけにいかない。現代においてはまさに特権だ。
そして日々の暮らしの厳しさを詠嘆するに最も相応しいのは「ホームレス」歌人だ。ホームレス自体はむろん昔からいた。だが昨年の暮れ、政財界とマスコミの「百年に一度の不況で大変なんです」キャンペーンで不安になり始めた人々の前に、「派遣切り」によって労働者が一斉に職と住む家を同時に失ったというようなニュースが連日届けられるのに混じって、社会詠が特長の朝日歌壇に、居住市(または県)の欄からして「ホームレス」と人目を引く「公田耕一」が、満を持してデビューし、俄然注目されたのである。読者は公田の重苦しい境涯詠に感動し、「ホームレス」という境遇に理解を持ったことに満足する。
しかし短歌を作るホームレスな人が辞書を引くために本屋へ立ち読みに行くというのは妙な設定だ。そんな風に貧乏を強調するのはおかしい。公田が住んでいるらしい横浜にだって図書館がたくさんあるはずだからだ。連作「ザ・ホームレス」も開始から半年過ぎて、そろそろネタが尽きて来たのであろうか。転身の時機が近づく?
転身といえば、かつて朝日歌壇に「夕張市・美原凍子」という芸名の短歌作家が存在した。「素寒貧なこの街でつつましく生きてます」路線でしばらく朝日歌壇を席巻したが、のちに彼女は「夕張」という強力なブランド・バリューを捨てて(「わたしこの街から出て行きます」でもしばらく引っ張ったが)、現在の「福島市・美原凍子」へと転身した。8日も星印を取っている。つまり、もともと才能があるならば、一つの肩書きや同じ作風に執着する必要は無いということだ。そもそも「公田耕一」とは、その芸名を名乗る以前にも、それなりの期間は短歌をやっていた人だろう。巧すぎるから。
ところで私は川崎に住んでいるのでよく川崎市立図書館を利用する。先週も行って本を借りた。「短歌」の書棚には「馬場あき子」と「林あまり」が仲良く並んでいる。彼女たちの本の上の隙間に窮屈そうに載っていた「穂村弘」を借りることにして、カウンターへ向かう。見れば図書館の職員が、なんと「有隣堂」の名札をつけているではないか! 民間委託というやつだろう。市にしてみれば、外部に委託したほうが常勤職員を雇い続けるより安い。企業はパートを雇って市の施設へ(交通費自腹で?)行かせてピンハネすることができる。市も企業も儲かるのだ。損をするのは実際に働く人だけ。更に(ここからはオプションだが)市の幹部は企業からの饗応や毎度毎度の付け届けが期待できるし、退官後の天下り先を確保することにもなる。企業にしてみれば、公共事業に食い込む旨味あってこその必要経費だ。どっちみち元は税金、こちらに流してくれた役人の懐にも少しぐらい入れてやらねば心が痛むというものだ。
公田耕一がもしかして、このような含意あって図書館のことをわざと「有隣堂」と呼び間違えたのだとすれば、凄い。
辞書持たぬ歌作りゆゑあやふやな語句は有隣堂で調べる 公田耕一
「有隣堂」とは神奈川の大手書店チェーンの名前だ。しかし、立ち読みで語句を調べるために本屋に行くのか? 普通に考えて、図書館のほうがよくはないか? 私なら、調べ物は図書館でする。また、「本屋」とか「書店」と言えば済みそうなものなのに、特定の企業名を露出させたのは何故か。具体名のほうが、たとえ辞書を欲しくても500円の古本さえ買えないほど貧しい生活の「リアリティー」が増すとでもいうのであろうか。(ちなみに以前私の「モスバーガー食うのに苦戦してたのに…」と具体的商品名をよみこんだ短歌が毎日歌壇に掲載されたが、あのなんとも食いづらい代物を「ハンバーガー」と一般化することは不可能だ。)
そう、「リアリティー」こそ大切だ。日々その境遇に「現実に」生きてこその境涯詠だ。例えば、新幹線とジェット旅客機の散文的時代に「望郷」の歌を詠む資格を持つのは、異郷で終身刑に服する者だ。「郷隼人」のように。彼ならば、皆のように都会から二時間半で郷土に着くわけにいかない。現代においてはまさに特権だ。
そして日々の暮らしの厳しさを詠嘆するに最も相応しいのは「ホームレス」歌人だ。ホームレス自体はむろん昔からいた。だが昨年の暮れ、政財界とマスコミの「百年に一度の不況で大変なんです」キャンペーンで不安になり始めた人々の前に、「派遣切り」によって労働者が一斉に職と住む家を同時に失ったというようなニュースが連日届けられるのに混じって、社会詠が特長の朝日歌壇に、居住市(または県)の欄からして「ホームレス」と人目を引く「公田耕一」が、満を持してデビューし、俄然注目されたのである。読者は公田の重苦しい境涯詠に感動し、「ホームレス」という境遇に理解を持ったことに満足する。
しかし短歌を作るホームレスな人が辞書を引くために本屋へ立ち読みに行くというのは妙な設定だ。そんな風に貧乏を強調するのはおかしい。公田が住んでいるらしい横浜にだって図書館がたくさんあるはずだからだ。連作「ザ・ホームレス」も開始から半年過ぎて、そろそろネタが尽きて来たのであろうか。転身の時機が近づく?
転身といえば、かつて朝日歌壇に「夕張市・美原凍子」という芸名の短歌作家が存在した。「素寒貧なこの街でつつましく生きてます」路線でしばらく朝日歌壇を席巻したが、のちに彼女は「夕張」という強力なブランド・バリューを捨てて(「わたしこの街から出て行きます」でもしばらく引っ張ったが)、現在の「福島市・美原凍子」へと転身した。8日も星印を取っている。つまり、もともと才能があるならば、一つの肩書きや同じ作風に執着する必要は無いということだ。そもそも「公田耕一」とは、その芸名を名乗る以前にも、それなりの期間は短歌をやっていた人だろう。巧すぎるから。
ところで私は川崎に住んでいるのでよく川崎市立図書館を利用する。先週も行って本を借りた。「短歌」の書棚には「馬場あき子」と「林あまり」が仲良く並んでいる。彼女たちの本の上の隙間に窮屈そうに載っていた「穂村弘」を借りることにして、カウンターへ向かう。見れば図書館の職員が、なんと「有隣堂」の名札をつけているではないか! 民間委託というやつだろう。市にしてみれば、外部に委託したほうが常勤職員を雇い続けるより安い。企業はパートを雇って市の施設へ(交通費自腹で?)行かせてピンハネすることができる。市も企業も儲かるのだ。損をするのは実際に働く人だけ。更に(ここからはオプションだが)市の幹部は企業からの饗応や毎度毎度の付け届けが期待できるし、退官後の天下り先を確保することにもなる。企業にしてみれば、公共事業に食い込む旨味あってこその必要経費だ。どっちみち元は税金、こちらに流してくれた役人の懐にも少しぐらい入れてやらねば心が痛むというものだ。
公田耕一がもしかして、このような含意あって図書館のことをわざと「有隣堂」と呼び間違えたのだとすれば、凄い。

